裏日記。
はてなでは書けない愚痴とか裏話。表より表現が痛い可能性大です。

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 12月19日

「失敗は成功の母である」という言葉がある。
「失敗を恐れずにやってみよう」と励まされる事が多々ある。

その言葉に反旗を翻すかのように、僕の心の中では「失敗する事は人格を否定されてしかるべきだ」という、非常に野蛮な論理がまかり通っている。
それは専ら自分に向けられるのだが、最近はその論理すら他人に向けてしまっているような気がして、恐ろしくなってくる。


そもそも、失敗せずに成功した事象などあったのだろうか。
考えてみれば、赤ちゃんは歩けるようになるまで何度も何度も挑戦する。
はいはいから始まり、つかまり立ち、ようやっと何も掴まずに立てるようになって、頭をフラフラさせながら、危なげながらも歩けるようになる。
それまで、一体何回「歩く」試みをしているのだろう。
そして、何度失敗をして、「歩ける」までに成長したのだろう。

赤ちゃんの心の中には、「失敗」の概念は全く無いと思う。
ただひたすらに、立って歩いてみせる――。そういう性根が赤ちゃんを突き動かしているのだろうと思う。
生理的な動作であるにしても、先程述べた「決心」は尽きる事無く、最終目的である「歩行」の動作へと辿りつく。

それならば、大人である僕はどうなのか。
一回の失敗で「ああ、もうダメだ。僕は出来ない人間なんだ。周りからそういう目で見られているだろうから、出来ない人間なんだろうな」と思う。
失敗は自分が完璧である事柄が欠如する事であり、許されざる出来事なのである。
そこには反省が無い。教訓として活かそうという考えもない。
あるのは自分への卑下と、嫌悪と、無力感。
失敗する事により、他人の見る目がコロッと変わってしまうのが、怖いのである。

思えば、子どもの時は肌の色が黒く、他の子からは「砂漠の人間」と揶揄された記憶がある。口臭が酷かったらしく、「息が臭いんじゃ」と言われた事もある。
肌の色で他人との隔絶感を味わったし、口臭で避けられる為喋る事を恐れた時期もある。
だからこそ、それ以外の面では完璧でいよう、と思った。
頭はそこまで良い方ではなかったが、周りからは「勉強の出来る奴」と思われるくらいにはなった。
親に迷惑もかけず、法に触れるような事は一切して来なかった。
周りからは「いい子」でいられるよう、精一杯努力してきた。
他人の目から見て果たして自分は良い人間なのかと、ひたすら自分に問いかけて生きてきた。

 

それが、どこから間違ってきたのだろう。
間違いを恐れ、失敗を嫌悪し、都合の悪い事は全て他人任せ。
自分は良く出来る人として認められるために、外面だけは印象良くする。肝心の中身を鍛えずして、外見のみ装って。
「はい、やらせていただきます」と威勢の良い返事を吐きながら、自分の能力の無さに煩悶し、結局何もせず「はぁ? 何でしたっけそれ?」と惚ける始末。
いい子を目指し、行きつく先がこんな不甲斐無い人間ならば、僕は何のためにこの人生を謳歌してきたのだろうか。

自分の悪いところを見つめて、それと上手く付き合っていくしかないのだろうが、
今まで行ってきた方針を180度転換しない限り好転しないという状況まで追い詰められているのだろうか。
人から指差されて生きていく人生が嫌だから、なるべく人に馬鹿にされない外面のみを追い求めていく事は、やはり上っ面な人生なのだろう。
失敗を恐れて、自分が傷つかなければ平穏無事という考えでは、これからの人生到底乗り越えていく事など出来ないのだろう。
ああ、僕は何と薄っぺらい人間であるのか!
そして、今から進まなければ行けない道を怖がって何もしないでいるのは、「歩く」事に挑戦し続ける赤ちゃんよりもダメな人間であるのだろう。

 

最近、存在を消してしまいたいと心の底から思った和光でした。
一過性の鬱状態、疲れから来ているものだと思いますが、最近躁と鬱の波が激しくなってきている感じがして、怖いです。
落ち込むと「もうだめだー」という否定的な感情が心の中いっぱいになってしまって、どうしようもなくなってきます。
刃物を見て斬られる、若しくは衝かれる瞬間を想像してしまう時があったりなかったり。希死念慮や自傷行為は流石に沸いて来ないけど。





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